順風満帆な関東での生活を捨て地元の九州にUターンをした話

順風満帆な関東での生活を捨て地元の九州にUターンをした話

ライフスタイル

目次[非表示]

  1. 順風満帆な関東での生活
  2. 転機は急に訪れた
  3. 転機の連続
  4. 九州へUターン
  5. さいごに
コロナ渦の影響で、これまでの働き方やライフスタイルに大きな変化が訪れつつある昨今。私たちは「これから家族でどう暮らしていきたいか」「将来、どんな家族を築いていきたいか」を改めて考えることを迫られています。その先の選択肢の一つとして、暮らし慣れて愛着のある地元に戻る「Uターン」を検討している方も少なくないでしょう。

そうした方たちの参考となるアドバイスとして、関東で就職・結婚し32歳で地元の九州へUターンした高橋建二さんの体験談を、今回から4回に分けてご紹介します。
はじめまして、千葉県松戸市から地元福岡県北九州市に32歳でUターンし、今年で8年が経とうとする高橋建二です。

もともと関東在住時代は食品スーパーに勤めており、九州へUターンしてから3年後の35歳でIT企業へ転職しました。またファザーリング・ジャパン九州というパパ会にUターンしてから在籍しており、現在は理事として活動をしています。

年上の関東出身の妻と、中2になる娘の3人家族です。いまだに賃貸の戸建に住んでいるので、今後の住まいはどうしようと悩む働き盛りで40歳のパパでもあります。

趣味は、パラレルライフ。仕事やボランティア、副業や旅行など、ワークとライフをごちゃごちゃに混ぜ合わせたような生活を送るのがスキみたいです。

現在、普段の出来事をnoteで発信もしています。

順風満帆な関東での生活

関東時代は東証一部上場のわりかし大きな食品スーパーで青果チーフをしており、毎日野菜や果物と戯れながらもそれなりに結果を残していて給与も年々上がっていました。

当時はこちらもわりかし大きな労働組合の役員としても動いていたり、岡山や北海道へ店舗視察に行ったり、2012年にはアメリカへ現地視察に行くなど仕事とは少し離れたところでも活動していました。

妻とは20歳過ぎに行ったオーストラリアでのワーキングホリデーで出会い、妻の実家の松戸市に住みながら娘1人を育てていました。超就職氷河期世代のわたしは、地元での就職を無理だと捨てて関東行きを決断したことが功を奏したのか、仕事もプライベートも同世代からするとまあまあの状況だったと思います。

その一方、わたしの住んでいた千葉県の松戸から勤務地のある埼玉県の川口まで毎日車で通勤していても、それまで住んでいた九州とは違う地名になぜだか違和感がありました。

葛飾、三郷、草加や越谷など。葛飾と言えば交番を舞台にする漫画、越谷と言えば幼稚園を舞台にする漫画。草加と言えば、せんべいでしょうか。

成人するまで九州で過ごしていたわたしは、何年住んでも幼い頃とは違う地名、だけど聞き慣れた地名に毎回変に反応していました。

転機は急に訪れた

しかし良いことがずっと続くわけではないのが人生でしょう、2011年3月11日に悲劇は起こりました。そうです、誰もがご存知の東日本大震災です。

当時わたしは川口市の駅近くの店舗で勤務していたのですが、その日はたまたま休みをもらっていました。ゆっくりした休日を家の近所で過ごしていて、娘の幼稚園のお迎えに行ったあとに震災は起こりました。

震災当日は職場にも実家にも誰にも連絡がつかず、家族3人で不安な夜を過ごし、次の日にお店へ通勤すると悲惨な状況が待っていました。

店内は荒れ放題で、特にお酒コーナーでは日本酒と焼酎が混ざり合って床にあふれており、そこからの異臭は今でもたまに思い出すほど強烈でした。震災当日は地震のあと緊急避難して職員みな帰宅していたので、一夜明けて改めて店舗内を見渡して地震のひどさを体感しました。

転機の連続

震災が起こってからというもの、人生の転機の連続。わたしと同い年の同僚が、30歳という若さで脳梗塞を患いました。理由は「働きすぎによるストレス」だったのではということです。

同僚はとても真面目でよく働き、聞くと休みなく朝から晩まで働いていたようでした。それに気づいてあげれなかった自分が腹立たしく、何かできないかと動いて見つけたのが労働組合でした。

会社には大きな労働組合があり、そこで活動することによりちょっとでも職場の働き方の改善ができれば良いなと動きました。同僚は一命をとりとめ、半年後くらいに職場復帰できました。集中治療室から一般病棟に移ったときに会った同僚はまるで別人で、病床でのわたしの父親とかぶったのです。わたしは8歳で父親を過労で亡くしており、父親と同僚を重ねてしまうこととなりました。

翌年の2012年にまたわたしにとって悲劇が起こりました。父親を早くに亡くしたことで、父親代わりをしてくれていた祖父が病に倒れたのです。

7月5日に休みを取って飛行機で帰省する予定でしたが、祖父の最後の死に目に会えず7月4日の夜に祖父は帰らぬ人となりました。7月5日にわたしが帰るから、同じ男の自分には痛々しい姿は見せたくなくて死を急いだのないかと思いました。

九州へUターン

2011年、2012年とわたしの人生にとっての転機が続き、「生きる」や「働く」に関して考えさせられることとなりました。

わたしの実家は祖父を亡くしたことで男手が減り、実家には母、祖母、叔母と3人が住んでいます。車を運転できるのも近くに住む妹夫婦くらいなので、そういったことを考えるとわたしの選択肢にUターンという言葉が浮かんできました。

悪くない関東での生活を捨てて地元の九州へUターンをするのは、挑戦でもありリスクもあると考えました。妻ともいろいろと相談して、結果的に娘が幼稚園から小学校へ上がるタイミングで転職を伴うUターンを行いました。

わたしは当時32歳でした。娘の入る小学校はわたしの母校でもあるのですが、そこを見学させてもらったときに校長先生が「北九州にはディズニーランドがなくてごめんね、でもスペースワールドはあるから」と言われたのを今でもハッキリ覚えています。

娘への慰めなのか冗談なのかは今ではわかりませんが、都会から田舎へ引っ越すということをまざまざと感じられた出来事でした。

さいごに

娘も大きくなり、今では思春期真っただ中の中学校2年生。地元を離れることになった妻も、銀座や新宿が恋しいようですが田舎ライフを愚痴りながらも8年間生活できています。

わたしと言えば、小売業からIT業へ転職したり、NPOでの活動や市役所の役職に就くなどさまざまな活動を行えています。

2020年のコロナ禍もあり、生き方や働き方に大変化が起きそうですが、それをいち早くわたしは体験しているかもしれません。

目の前のことがすべてのような気持ちになるかもしれませんが、どこでも人間はそれなりに楽しく生きられるのではと思います。Uターンしないのも人生、するのも人生。たまたま転機が続いたことでわたしはUターンという選択肢を選びましたが、選んで良かったこともあるし、選んでない人生も気になります。どう選ぶか、どう感じるかはあなた次第です。

でも、Uターンしても、当時とは変わらないくらい充実した毎日を送ることができています。いつも支えてくれる家族、友人やつながっている方々には感謝しかありません。ありがとうございます!

九州にUターンされたい方、またしている方、ファザーリング・ジャパン九州は現在もメンバー募集中です。気になる方はぜひWebサイトを御覧くださいませ。
突然訪れた人生の転機において、「生きること」や「働くこと」について改めて考え、地元へのUターンという道を選んだ高橋さん。「当時とは変わらないくらい充実した毎日を送ることができています」と書かれていますが、家族まるごと新天地に移るにあたって苦労したことは決して少なくなかったはず。

次回は、高橋さん一家にとってUターンで大変だった体験談を紹介していただきます。