焼酎聖地宮崎県を巡る旅 前編

焼酎聖地宮崎県を巡る旅 前編

趣味・遊び

目次[非表示]

  1. 【はじめに】焼酎聖地の歴史のスタートは約500年前
  2. 日向焼酎の歴史を少々紐解いてみると
  3. サツマイモの伝来と芋焼酎の誕生
  4. 地域の風土にあわせて作られてきた焼酎
  5. 焼酎ノンジョルノ宮崎2019
  6. 「飲むときは豪放磊落にごいごい飲んで」と太っ腹なタンブラー
  7. 肴はオール宮崎の食材を近隣居酒屋が提供
  8. 次世代の蔵元さんの参加も
  9. 焼酎ノンジョルノのあとにはハシゴ酒
  10. 東京開催バージョンのノンジョルノ
  11. 2020年には東京で2大イベントが開催

町田正英(焼酎ナビゲーター)

宮崎県の魅力を国で例えれば日本のイタリア。南北に長く、自然環境や食生活が多様です。この宮崎の焼酎世界をご紹介する前に、焼酎の歴史について予備知識として簡単にお伝えします。

また「宮崎を巡る旅」は、前編にて「焼酎ノンジョルノ宮崎」を、後編を2回に分けて「県北・県央編」「県南・県西編」とし、全7蔵の魅力を綴っていきます。焼酎を醸す8つのストーリーを読んで、焼酎の味わいがより立体的になればうれしいです。

【はじめに】焼酎聖地の歴史のスタートは約500年前

日本が世界に誇る地酒である焼酎。焼酎業界の歴史を紐解くと約500年の歴史があります。

焼酎最古の記録と文字は、今から473年前の書物『日本報告』に出てきます。この書物は1546年、薩摩半島南の揖宿郡山川地方に6カ月間滞在したジョルジェ・アルバレス船長が、あのフランシスコ・ザビエルの依頼で書いたもの。来日経験をもつ欧米人が書いた最初の日本見聞記で、また最も古い焼酎の記録であり、米から作る「オラーカ」という米焼酎が飲まれていたことが記されています。

日向焼酎の歴史を少々紐解いてみると

さかのぼること戦国時代。島津氏と伊東氏は日向国で覇権を争っていました。1577年、島津氏は悲願の日向を手にいれますが、10年後の太閤秀吉の九州征伐の結果、日向は延岡藩、高鍋藩、飫肥藩などに分割されることになりました。この 10年間の薩摩藩統治時代に、薩摩領内に普及が始まった焼酎が、島津氏に近しい都城藩、佐土原藩、飫肥藩を通じて南から北へ向けて広がっていったと考えられます。

また延岡藩では関東出身の武士が多く清酒を飲む文化が続いていたようで、現在も延岡市には宮崎で唯一清酒蔵があることもうなずけます。

サツマイモの伝来と芋焼酎の誕生

もっとも、薩摩芋が文字通り薩摩の国・薩摩藩に届くのは、種子島が最初で1698年。薩摩藩本土で広く普及するのは1705年のことです。

やはり鹿児島県揖宿郡山川地方(杜氏は頴娃郡大山村)の漁師、利右衛門さんが琉球(沖縄)からサツマイモを持ち帰ってきたことがキッカケです。それから薩摩半島から大隅半島まで広く普及し 、1732年の大飢饉で救援作物としてブランドを確立。各地へ一気に広がったと言われています。

この流れで芋焼酎は 1700年の半ばごろから誕生したものと考えられています。薩摩から当時の宮崎県一帯にも広がり、やがて文化として根付いた芋焼酎は粟、黍、稗など雑穀で作られた焼酎に代わり、サツマイモが原料の主役となっていきます。さらに歴史上の絶妙なご縁がつながり、芋焼酎文化は鹿児島、宮崎に加えて黒潮にのって東京島酒としても発展を遂げることになるのです。

■東京島酒についての詳細はこちら

地域の風土にあわせて作られてきた焼酎

今でこそ焼酎は、全国各地域の特産物から多種多様な焼酎が作られるようになりましたが、およそ50年前の昭和40年代までは、米焼酎といえば泡盛産地の沖縄、熊本の球磨焼酎。芋焼酎は鹿児島と宮崎、そして伊豆諸島。麦は長崎県壱岐の島々、黒糖焼酎は奄美諸島。そして粟、稗、黍、トウモロコシなどの焼酎は宮崎県北部と、地域と産物がセットの時代でした

この時代を経て現在は全国で地域の特産物を使ったバリエーション豊かな焼酎が産業として根づき、飲み手としては選択の幅が広がり、うれしい限りです。

以上ここまでは予備知識でした。

今回は焼酎聖地の代表である宮崎県の焼酎イベントに参加。さらに宮崎各地の各蔵元さんの地元を回ることで、焼酎文化が現在どのように根づき飲まれているのか、日向の国の懐に飛び込んで庶民の立場で見て回ることにしました。まず最初に体験したのは、本場の焼酎ファン感謝デイ的イベント「焼酎ノンジョルノ宮崎」です。
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