東京島酒の源流を辿る旅【前編】青ヶ島

東京島酒の源流を辿る旅【前編】青ヶ島

趣味・遊び

目次[非表示]

  1. 東京島酒の源流を辿る旅。青ヶ島からスタート
  2. 神のご加護がないと辿りつけない島
  3. 選ばれし者が乗り込む9人乗りヘリコプター
  4. 時化になるとこんな様相に…
  5. 青ヶ島の歴史を紐解けば「環住」の2文字を目にします
  6. 逆境だからこそ心を緩めるお酒が造られました
  7. あおちゅう生産者は村の名士、荒井清さん
  8. 奥山 晃さんによる焼酎レクチャー
  9. 温度感ある青ヶ島流のおもてなしは蒸気を使います
  10. 青ヶ島を飲んで応援。想いを寄せて東京でも飲めるあおちゅう
  11. あおちゅうを飲みながら青ヶ島にひたれるお店

東京島酒の源流を辿る旅。青ヶ島からスタート

初秋の10月初め、東京島酒の源流を探るために青ヶ島と八丈島を訪ねる旅に行ってきました。目的は鹿児島から渡ってきた焼酎文化がいかに根付いたのか、焼酎界伝説の巨匠、丹宗庄右衛門さんの足跡を辿りながらその伝播を見届けることです。

青ヶ島編の前半と、後半の八丈島編と2部構成でお届けします。たまには地酒の歴史をめくりながら、ご家族で東京の島旅はいかがですか。マニアックな(笑)お休みの過ごし方として参考になれば嬉しいです。

神のご加護がないと辿りつけない島

青ヶ島の概要を言えば、面積は5.98㎡、島の外周は約9km。東京からの距離は南へ向かって358km。およそ東京から名古屋までの距離に近いです。
緯度で言えば宮崎県と同位置。必ず経由する八丈島からは約70kmの距離で、アクセス方法は2通りです。八丈島から連絡船。またはヘリコプター。
連絡船は週に3日~4日就航しますが、就航率は年間通して50%強。ヘリコプターは80%です。
連絡船は時化(しけ)になると唯一の港、三宝港に横づけできないため泣く泣く戻ることもあります。冬には就航率も20%くらいに下がるとか…。文字通り絶海孤島、青ヶ島。

選ばれし者が乗り込む9人乗りヘリコプター

確率の高いヘリコプターで行こうにも席は9つしかありません。確保するためには1カ月前には電話で熾烈な競争に勝つ必要があります。
今回宿で一緒だった方は、発売日に電話がつながったと思ったらすでに売り切れだったとか。キャンセル待ちでやっと入手できたという方も。まさに選ばれし者が乗れるヘリコプターです。
今回は私自身は往復連絡船で行く覚悟を決めており、もし船が就航できない場合にも備えて週初めの月曜日朝一番で八丈島空港へ入り、そのままタクシーで港へ向かい間髪入れず連絡船で青ヶ島へ直行しました。中には20日ほど島に滞在を余儀なくされたこともあるという方もいらして、アクセスの運次第の青ヶ島の日常が浮かび上がってきます。

おかげさまで無事に動いた船が憧れの青ヶ島にたどり着いたときはすでに感動でした。それも八丈島では土砂降りの天候が嘘のように快晴。70kmの距離は天候も異なり、黒潮に浮かぶ絶海の孤島の称号にふさわしいたたずまいを見せていました。

時化になるとこんな様相に…

島の玄関口、三宝港。24時間カメラでの様子を実況で見ることができる場所でもあります。
http://www.vill.aogashima.tokyo.jp/life/facilities.html
この港がライフラインとして頼みの綱ですが、黒潮の海が荒れればこのタワーの高さまで波にのまれてしまいます。タンクローリー車の大きさと比べてみてください。逆にいえば、相当大きい津波がきても強固な絶壁が盾になるともいえますが、火山噴火リスクは今でもあったり。

世界が憧れる島、青ヶ島。簡単にたどり着けないだけになおさら行きたくなる島ですね。底知れない魅力がぎっしり詰まってます。

青ヶ島の歴史を紐解けば「環住」の2文字を目にします

青ヶ島の誕生は数千年前、伊豆諸島ほかの島々と同様に火山によって形成されました。これまでの研究では少なくとも大島や三宅島よりも創成が古いとされています。現在島に暮らす人々は2019年10月時点で168人。小中学生は合わせて10人。島の未来を担う貴重な子どもたちです。

島の歴史を紐解くとそこには苦難の足跡がみられます。江戸時代の天明5年(1785年)に天明の大噴火が起きました。青ヶ島の宝庫、池之沢から神火が噴出し百数十名が犠牲者となり、200名以上の人々が八丈島へ避難。それから実に半世紀、島は無人島となりました。八丈島にとって急激な人口増は、飢饉の島にとっても大変な事態だったと推察できます。

無人化から50年を経て島の生態系が元にもどった天保6年(1835年)に、青ヶ島のモーゼといわれる佐々木次郎太夫さんのリーダーシップにより、故郷に戻る「環住」の願いが成就されました。以降島が徐々に再建し、当時240人だった人口は明治14年(1881年)には最大754人の人口を記録。そして昭和15年(1940年)には青ヶ島村として独立を果たします。
この風景は、先日八丈島から見た青ヶ島。

台風到来の前で荒れ模様の天候のため青ヶ島は見えませんでしたが、天明の噴火当時、八丈島から噴火の様子がリアルに見えたはずです。それを見て八丈島の人々は船を漕ぎ出して救出に向かいます。当時の不安定な航行技術で黒潮の海を渡るのは命がけですが、青ヶ島島民のために動きました。この船で救われた方が50年を経て八丈島文化を携え、青ヶ島の新たな歴史を作ったのです。

逆境だからこそ心を緩めるお酒が造られました

逆境に負けないたくましい精神が宿る青ヶ島。庶民の日常生活ではたまには気持ちを緩めて一服できるお酒があったはず。それが当時は各家庭で独自に造られ飲まれていた焼酎「あおちゅう」です

八丈島から文化として持ちこまれた焼酎づくり。その製法は青ヶ島の自然環境に適合し変化を遂げ、仕込みに使用するオオタニワタリによる自然発酵がそれにあたります。1853年に丹宗庄右衛門さんによって持ち込まれた薩摩藩の焼酎文化は、青ヶ島でさらに独自な焼酎文化を形成しました。

各家庭にてお母さん流で醸していたのは、つい最近とも言ってよい昭和50年前後まで。かつて本土では、どぶろくを家庭で仕込んでいたかのようにあおちゅうが日常的に醸されていました。その味、伝統を未来へつないでいこうと焼酎造りを続けている杜氏が10人。その文字通り十人十色の焼酎造りの現場を、今回ご縁がつながり直接見せていただくことができました。

※下の画像は家庭であおちゅうが仕込まれていた風景。それを表現したイラストです。青ヶ島の図書館ではかつて生活で使用されていた民具が飾ってあり、当時の面影を手に取ることができます。
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